中国,三国時代の魏の事実上の創建者。太祖武帝と追尊される。父は後漢の有力な宦官曹騰(そうとう)の養子。曹操は若いときは策略にたけた非行少年として評判はよくなかったが,なかなかの勉強家で,とくに兵法の書物を好み,《孫子》13編の注を書くなど,きたるべき〈乱世の姦雄〉になるだろうと評する人もあった。20歳で宮仕えを始め,いくつかの官を歴任したのち,184年(中平1)の黄巾の乱では一部将として討伐に手柄を立て,済南国(山東省)の相(代官)となった。やがて首都洛陽にもどって近衛部隊長になっていたとき,西方から上洛してきた武将の董卓(とうたく)が強大な武力を背景にして189年,天子の廃立を行い,首都は大混乱に陥った。そこを脱出した曹操は,翌190年(初平1)袁紹(えんしよう)を盟主とする董卓討伐軍が各地に蜂起すると,みずから集めた兵を率いて参加したが,同盟は名ばかりで,事実上これより群雄割拠の状態になる。曹操はだいたい山東省西部から江蘇省北部に及ぶ地方を勢力下に収めた。後漢最後の皇帝献帝を長安(西安)に移した董卓が192年に殺されたあと,献帝が廃墟と化した洛陽に帰ったのを見て,194年(興平1),献帝を許(河南省許昌)に迎え,ここに屯田を設けて自己の根拠地にした。 かくて献帝から大将軍の地位を授けられ,盟主であった袁紹よりも上位に立つと,両者の対決は必至となり,200年(建安5)官渡の戦で曹操は決定的な勝利を収めた。その後,202年の袁紹の死後もなお噸(ぎよう)(河北省臨唆)を中心に割拠していた残党を204年に平定し,207年には遼寧省にまで進出して華北征服を完了した。一転して208年には湖北省を征服して,襄陽(じようよう)に流寓していた名士たちを召し抱え,さらに南進を図ったが,赤壁の戦で阻まれ,ここに天下三分の形が生じた。213年,献帝は冀州(きしゆう)(河北省)10郡をもって曹操を魏公に封じ,216年には魏王に進めたが,帝位を譲られる寸前に曹操は病死した。彼は第一級の政治家,戦略家であると同時に,すぐれた詩人でもあり,五言詩を芸術に高めて文学のジャンルを確立するのに寄与したことも忘れてはならない。