作品名前:蘭亭序貼刻石年代:東晋
書写作者:王羲之彫る時期:清聖祖玄Y康煕年間(公元1662年-1722年)碑石サイズ: 高:75cm 幅:26cm拓本サイズ: 高:75cm 幅:26cm碑石所在地:西安碑林博物館館蔵
王羲之について
中国,東晋の書家。山東省南東部の琅邪臨沂(ろうやりんぎ)の人。名は逸少。官名により王右軍と呼ばれる。父は王曠(おうこう),東晋の元勲王導とはいとこの間柄になる。王羲之は早く父を失ったので,この王導や叔父の王儀(おうい)の庇護をうけて成長し,実力者の萄鑒(ちかん)の女と結婚し,貴族社会の寵児として官界に乗り出し,征西将軍府参軍として武昌に赴き,累進して長史となり,のち寧遠将軍,江州刺史となった。王導からたびたび建康(現,南京)の中央政府に入ることをすすめられ,辞退しきれず,一時,護軍将軍に就任したが,中央の空気になじめず,地方に出ることを希望し,351年(永和7),右軍将軍,会稽内史として会稽郡治の山陰県に赴任した。今の浙江省紹興である。この地では,土着の豪族や,移住していた謝安らの名士と交遊しながら,4年間在任。その間永和9年3月3日上巳の日,この地の名勝蘭亭に集まって禊(みそぎ)を行い,曲水に杯を浮かべて宴を催したことは有名である。このとき来会者がつくった詩を集めて1巻とし,その巻首に王羲之みずからが筆をふるって書いたのが有名な《蘭亭序》である。355年退官後もこの地に住み,10年間の余生を楽しんだ。 王羲之は幼少のときから書をよくした。筆法を衛夫人(名は鑠(しやく))にうけたとか,叔父の王儀を師としたとかいわれるが,後漢の張芝,三国魏の鍾席(しようよう)以下の書を集大成し,そして天賦の才能によって,すばらしい芸域に達したものであろう。今日,王羲之の真跡は一つも残っていないとされている。しかし,真筆に近いものとしては,日本に伝わる《喪乱帖(そうらんじよう)》と《孔侍中帖》とがある。これらは,隋代以前の搨桐本(とうもぼん)だといわれるが,その真跡を想像するに足る。どちらも,行草書の尺牘(せきとく)である。当時の貴族は,互いにやりとりする尺牘に書技を競ったものであるが,彼が尺牘にこのような調和の極致ともいうべき美しい書を残していることは驚嘆に値する。前記《蘭亭序》は有名なものであるが,搨桐,臨桐,翻刻を重ねて何百種かのものができているので,これによって王羲之の真跡をうかがうのは相当に困難である。それよりも,唐初に王羲之の行書を拾い集めて碑に刻した《集王聖教序》の方が信用できる。草書としては,尺牘二十数種を集めた《十七帖》,楷書としては,《楽毅論(がくきろん)》《黄庭経(こうていけい)》《孝女曹娥碑(こうじよそうがのひ)》《東方朔画賛(とうぼうさくがさん)》などの細楷が法帖として伝わっている。そのうち《楽毅論》は,光明皇后の臨桐したものが正倉院に残っており,これによって逆推すると,一字一字を非常に技巧をこらして書いたものであったようである。なお,王羲之の生没年については諸説あるが,魯一同が《右軍年譜》において示している推定説が,今のところ,もっとも妥当な説と思われるので,これによった。しかし,これに反対する人もある。